菅直人が今頃になって原発事故を知れっと弁解しても決して誰も許してくれないぞ
「5000万人避難まで想定した最悪の事態」菅直人元首相が振り返る3.11 #あれから私は
配信
当時を振り返る菅直人元首相(撮影:森健 ※写真はZOOM画像から)
マグニチュード9.0の巨大地震とそれに伴う津波で、1万8000人あまりの死者・行方不明者を出した東日本大震災。それは未曽有の原発事故も引き起こすことになった。震災当時、総理大臣だったのが菅直人衆院議員(74)。水素爆発も起きるなか、「最悪のシナリオ」として5000万人が避難することも想定していたという。10年後のいま、元首相に振り返ってもらった。(ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「創造的復興」を掲げたが……
(写真:ロイター/アフロ)
──東日本大震災から10年です。どんな感慨がありますか。 「あの震災では、津波で多くの人が犠牲になり、避難を強いられ、また、福島第一原発の事故も起きました。地震や津波では物理的な被害で元の住まいに戻ることができず、原発事故では放射線の影響で戻れていません。多くの人が戻れていないことを申し訳なく感じています」 ──菅さんは震災の翌月、諮問機関「東日本大震災復興構想会議」を立ち上げ、そこで「創造的復興」という言葉を掲げました。どんなイメージをもっていましたか。 「あの会議では、哲学者の梅原猛さんや芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんら、さまざまな知見をもつかたから意見をいただきました。『創造的復興』という言葉を選んだのは、単に元の姿に戻すのではなく、以前にはなかった新事業などを立ち上げ、仕事も生活も成り立っていく──そんな新しい復興を生み出していければと考えました」
岩手県宮古市(写真:ロイター/アフロ)
──被災地3県(岩手、宮城、福島)の現状を見ると、高さ10メートル以上の防潮堤や5メートル以上かさ上げした土地が各地にできた一方、3県の人口は今年1月現在で38万人以上減少しました。この現実はどう思われますか。 「土地や道路、建物といったインフラはある程度予算が必要です。盛り土して津波に備えたり、そこに住宅を建てたりということは、資金を投ずれば可能です。ただ、そこに人々の生活が戻るには、雇用や産業が必要です。それがあって人は戻れるし、社会生活を営める。残念ながら、まだ多くの人が戻れるほど、雇用や産業が十分ではないということなのです。そうした復興は時間がかかります」 ──「創造的復興」という理想と現実に乖離もあるように映ります。 「インフラを整備するのは復興の第一歩です。ただし住宅や学校をつくっても、住民あるいは子どもが戻ってこなければ意味がない。仕事や生活の営みが戻るには産業が必要ですし、そこは次に進めるかどうか重要なところだと思います」
2011年3月11日14時46分、三陸沖で起きた地震は、巨大な津波を発生させ、1万8000人あまりの命を奪っていった。津波は福島第一原子力発電所にも襲いかかった。沿岸に立つ1号機から4号機は津波で電源を喪失、核燃料を冷却させる手段をなくし、1号機から3号機は核燃料が溶け落ちる未曽有の事故に発展した。菅首相(当時)は、津波被害には自衛隊の10万人派遣で対応したが、原発事故については東京電力とともに事態を収拾しなければならなかった。
朝6時、吉田所長に会いに福島へ
福島第一原発(2011年3月12日 写真提供:TEPCO/ロイター/アフロ)
──改めて聞きます。原発事故が起きた3月11日はどんな状況だったのでしょうか。 「津波によって福島第一原発の電源が喪失したのは15時30分ごろ。17時42分に経済産業大臣からその報告を受けたときは背筋が寒くなりました。地震で鉄塔が倒れたうえ、非常用電源となるディーゼル発電機が津波をかぶって動かなくなった。原発で電源喪失とは、冷却ポンプが動かなくなり、炉心がメルトダウンを起こすことを意味します」 「官邸に原発の状況を伝えに来たのは3人いました。東京電力の武黒一郎フェロー、原子力安全委員会の班目春樹委員長、そして原子力安全・保安院の寺坂信昭院長です。保安院は本来、原発の安全管理をするための資源エネルギー庁の一機関です。ところが、院長に状況を聞いても要領を得ない説明でした。おかしいと思って、どこの出身なのかを尋ねると『東大経済学部』だという。それでは、原発の技術も安全の中身もわかるはずないと思いました」 ──11日夜には、1号機の内部でメルトダウン(炉心溶融)が始まっていました。 「12日の午前1時ごろ、東電側から連絡がありました。1号機の格納容器の圧力が上がって壊れてしまう、だからベント(一時的に弁を開ける排気)をしたいと。ベントをすれば放射性物質が出てしまうけど、やらなければ格納容器が爆発すると。私からは『やってください』と許可を出しました。ところが、何時間待ってもベントをしたという報告が来ない。武黒氏に聞いても『分かりません』と。この非常事態に東電はどうなってるんだと思いました」
──福島第一原発と東電本店では24時間のテレビ会議がつながっていたはずですが。 「その時点では、テレビ会議の存在は知りませんでした。ベントが遅れている理由も分からない。危機だけは刻一刻と迫ってくる。そこで、現場の責任者と直接話をするしかないと思い、12日の午前6時ごろ、首相官邸のヘリポートから福島第一原発に向かうことにしたのです」 ──吉田昌郎所長に会いに行かれたわけですね。 「はい。直接話したのは1時間弱でしたが、行ったかいがありました。はっきり、できるできないを言う人だったからです。吉田所長は『ベントは通常ならスイッチひとつで開くはずですが、電源喪失で弁が開かない』と言いました。『そのため弁の近くまで人が行くしかないが、放射線量が相当高い。作業員が数分刻みで交代しながらやらなければいけない』と。そのうえで、吉田所長は『最後は決死隊をつくってでもやります』と言ってくれた。私はこの人は腹が据わっているなと思い、『分かりました。頑張ってください』と福島を後にしたのです」 「ところが、官邸に戻ってしばらく経った午後に秘書がすっ飛んできて、『総理、テレビを見てください!』と。見てみると、1号機の建屋が水素爆発を起こしていたのです」 ──爆発の情報は上がっていなかったんですか。 「テレビ放映は爆発から1時間以上も経っていました。私の目の前に東電の武黒フェローがいたのですが、爆発の情報は伝わっていない。あまりにひどいと思いました。すでに原子力災害対策特別措置法が機能し、通報義務が生じているなか、東電は政府に1号機の爆発まで上げてこなかったのです」 ──なぜでしょうか。 「分かりません。混乱もしていたでしょう。実際こんなこともありました。震災初日に電源が喪失した際、『電源車を送ってくれ』というので必死に手配して電源車を現地に送ったんです。『やっと到着した』という連絡が入りほっとしたら、『差し込み口が違う』と。要は、原発に接続するケーブルの差し込み口が電源車のそれと合っておらず、使えなかったのです。その後も『配電盤が海水でやられていてつなげない』という報告がありました。それくらい混乱した状況でした」
東京を含む半径250キロ避難というシナリオ
自衛隊による放水作業(2011年3月18日 写真:陸上自衛隊中央特殊武器防護隊/ロイター/アフロ)
福島第一原発では12日の1号機建屋の水素爆発に続き、13日には3号機がメルトダウン、14日には同じ3号機建屋で水素爆発が起きた。同日の23時には、2号機が危機にあった。格納容器の圧力が異常に上昇し、冷却水も入らない。「最悪の事態」を想定せざるを得なかった。 ──15日朝5時30分ごろ、東京電力本店に乗り込みます。 「この日の午前3時ごろ、首相官邸に経産大臣や官房長官が来ました。『東電が原発事故現場からの撤退を申し入れています。どうしますか』という話でした。清水正孝社長が経産大臣に何度も電話をかけてきて、そう言っていると。驚きました。そんなことは絶対にできません。もし東電が撤退し、原発を放置したら、避難地域も拡大し、日本は壊滅してしまいます」 「とにかく、官邸に清水社長を呼んでくれと言うと、すぐにやってきました。その際、社長の話を聞く前に『撤退はありません』と告げました。すると、社長はあっさり『はい、分かりました』と受け入れました。拍子抜けしましたが、(これまで情報がなかなか来ない問題もあり)このままでは立ち行かない。政府と東電との統合対策本部をつくり、細野豪志首相補佐官を常駐させると言いました。それで朝5時30分に東電に行き、統合対策本部を設置しますという話をしたのです」 ──東電本店に首相が乗り込んだこと、ヘリで福島に行ったことなど、菅さんの行動には批判もありました。 「批判があったことは承知しています。しかし、あの時、私はどちらも行ってよかったと思っています。なぜなら、東電本店から的確な報告が来ていなかったからです。ベントをしなければ格納容器が爆発すると言いながら、なぜ遅れているかの説明がない。2号機、3号機などの状況も分からない。伝言の過程で重要なことが抜け落ちてしまっている可能性だってある。それなら短時間でも現地に行き、この目と耳で責任者から話を聞くほうが、いい判断ができる。そう考えて行動したことは間違いではなかったと思います」
──このころに「最悪の事態」も想定されていました。 「事故から2週間後の3月25日に、原子力委員会の近藤駿介委員長に出してもらった『不測事態シナリオの素描』という文書があります。それによると、1号機から4号機の核燃料の放射性物質が放出されると、『強制移転や任意の避難区域は東京都まで含む半径250キロに及び、5000万人の避難が必要となる』というものでした」 「じつを言えば、私自身は早い段階から『日本沈没』(小松左京原作)も連想していました。『日本沈没』は日本人全員が海外へ逃げねばならない話です。近藤委員長の不測事態シナリオはそれに近いものでした。そんなことになったらどうなるか……。とても口には出せない話でした」
完全な復興は100年以上かかるのでは
現在の福島第一原発(2021年2月21日 写真:AFP/アフロ)
──震災後、福島第一原発では廃炉作業が進められています。どう見ていますか。 「事故後、毎年1回は現地を視察しています。大きく変わったのは構内の風景です。広い敷地のほとんどが汚染水のタンクで埋まってしまった。一方、原発建屋は、外見は工事用の設備を除けばさほど大きな違いはありませんが、中身は様変わりしています。1号機から3号機は世界で初めてメルトダウンを通り越して、メルトスルーを起こしました。いま格納容器の底部には燃料デブリが堆積していますが、きわめて高線量で人が近寄ることができない状況です」
新シェルターの建設が進むチェルノブイリ(2013年4月 写真:ロイター/アフロ)
──2011年12月に東電が示した廃炉の中長期ロードマップでは、廃炉措置終了を30~40年後と設定しました。実現可能でしょうか。 「原子炉格納容器の内部にある燃料デブリを取り出すのも大変ですが、それを廃棄する場所だって簡単に決まらないでしょう。さらにそこから更地に戻して他の用途に使うとなると、数十年、いや100年以上を要するのではないかと思います」 ──当初、どれくらいの時間や人手が必要だと考えましたか。 「私は原発の専門家ではないので、最初の時点ではそれは判断できませんでした。ただ、その後、私は(1986年に事故を起こした)チェルノブイリ原発も何度か視察してきました。あそこは『石棺』と呼ばれるコンクリートで囲い込む対策をし、さらに2016年には鋼鉄製のシェルターで覆いました。それで100年間は放射性物質が外に出ないように見守るというのが現在の方針のようです。つまり、チェルノブイリという先行事例でもそんな状況なのです。福島第一原発でも同じくらいの時間がかかることは覚悟しなければなりません」
脱原発をもっと推進したかった
退陣の記者会見(2011年8月26日 ロイター/アフロ)
菅氏は2011年8月に、再生可能エネルギー特別措置法を成立させた。これは太陽光、風力、水力、バイオマスなどによって発電した電気を全量固定価格で一定期間、電力会社が買い取ることを義務づけたものだ。このように脱原発へと大きく舵を切ったうえで、同年9月2日に総理の座を辞任した。
農地の上に太陽光パネルが設置されたソーラーシェアリング(写真提供:千葉エコ・エネルギー株式会社)
──脱原発に向けて急速に動きました。 「私も震災前までは、原発の輸出を政策の柱にするなど原発には前向きでした。でも、あの事故を経験して、原発は安全ではないことがわかった。簡単に言えば、原発はなくすべきだと確信しました。ドイツの動きは早く、日本の状況を見て、2011年6月には『2022年原発ゼロ』を閣議決定しました。私がもう少し長く総理の座にあれば、もっとはっきりと原発ゼロへの道筋をつけられたと思います」 ──震災から半年で辞任に追い込まれましたが、もっとやりたいことがあったわけですね。 「はい、それはやはりエネルギーです。最近の例では、農地の上に太陽光パネルを設置するソーラーシェアリングを推したい。農業収入に加えて発電収入も得られれば、農家も収入が安定するし、電力も確保できる。農地400万ヘクタールで実施すれば、いまの日本の2倍の電力量を得ることができるという試算もあります。先に『創造的復興』という言葉を掲げましたが、私としては、こういう新しい技術や産業が、被災した地域で興隆すれば、復興も前進するんじゃないかと思うんです」
(撮影:森健)
──昨年来、新型コロナウイルスの感染拡大が続いていますが、これも一つの大きな危機という見方もできます。菅義偉首相のコロナ対策についてはどう評価されていますか。 「コロナと原発では性格は違いますが、危機管理という点では共通するものがあります。では、どうすべきか。コロナに関して言えば、総理大臣の仕事は、複数の信頼できる感染症の専門家から話をしっかり聞き、最悪の場合を想定し、それに至らないために行政的に何をすべきかを判断することです」 「そもそも菅首相は『自助・共助・公助』を首相就任時に掲げていましたが、コロナは自助努力だけで防止できるのでしょうか? それができないから公助が頑張り、共助や自助をやりやすくさせるという順序じゃないでしょうか。そういう社会のあり方を提示できていないのは、私としては残念です」
菅直人(かん・なおと) 第94代総理大臣。1946年山口県生まれ。東京工業大学理学部卒業。1971年、弁理士資格取得。1980年、衆議院議員選挙で初当選。社会民主連合副代表、新党さきがけ政調会長を経て、1996年、第一次橋本龍太郎内閣で厚生大臣。同年、民主党を結成、共同代表に。2010年6月から2011年9月、総理大臣を務める。 — 森健(もり・けん) ジャーナリスト。1968年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、総合誌の専属記者などを経て独立。『「つなみ」の子どもたち 作文に書かれなかった物語』と『つなみ 被災地のこども80人の作文集』で2012年に第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『小倉昌男 祈りと経営』で2015年に第22回小学館ノンフィクション大賞、2017年に第48回大宅壮一ノンフィクション賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。
【Yahoo!ニュース オリジナル 特集記事】
参照元/続きはこちら→:ヤフーニュース
URL:https://news.yahoo.co.jp/a
賛否はあると思われますが、貴重なインタビューです。メディア論
をめぐる、私たちの考え方を示しています。Yahoo!ニュース
菅直人が正しいとは思えない。
しかし、肝心の東電が、当時の記録を全く出してこない。
菅直人が東電に乗り込んだ時の映像はあっても、やり取りしている
東電は、菅直人のせいにしたいんだから、全て出せば良いはず。
何を隠しているんだろうな。
あの時、民主党政権を選んだのは国民。しかも俗にいう「風が吹い
日本人はこの事故で何を学んだのか。“安心”と“安全”の意味の
菅直人の対応が最善とは言わないが、あの状況で数千万人が避難と
また、この事態の根本原因は津波の予測が甘く、浸水による全電源
今後は、原発には根本的に非常に危険な部分があるということを誰
福島原発事故の際、当時の民主党政権は、対応指示、専門家会議や
その反省から当時の総理は政府事故調査委員会を組織しました。政
「失敗学」畑村氏を委員長に、時間をかけて冷静公正な調査でした
政権交代後8年の今、指示されたメモすら許されない官僚ら。森友
トップに順応する官僚。トップを選ぶのは国民です。
大メディアこそ責任重大で、権力者に伏すなら存在価値なしです。
あの時グズグズ言ってSPEEDIによる解析結果を出さずに、結
菅直人さんが自己正当化しているだけのインタビュー。
事実に基づいてどうすべきだったのか?と言う事が教訓。
自分が正しかったなんて言う説明はいらないし、事実は最悪だった
★今も忘れることができない
「俺は原発に詳しいんだ!!」
あんたが詳しいのは原発の清掃要員の労働問題の方であって原発の
こいつと枝野のせいで大爆ぜしてしまった。
メンツ優先でオバマ大統領が通告してきたハワイからの電源車の送
これを受け入れいていたら相当違った結果になっていただろうと思
東電の吉田氏に責任をなすりつけて・・・・。
なぜこの二人がいまも逮捕もされないでのうのうとしているのか!
非難所に顔を出して直ぐに帰ろうとした時に1人の男性から「もう
東日本大震災は天災だが、原発事故の被害拡大は明らかに人災であ
自分に都合の良いことをベラベラと…!
当時、吉田所長の言うとおり海水注入をしていればメルトダウンも
っていうか、現場からの声なのだから現場に任せていれば良かった
自分たちも招いた大惨事をよくもまあこんな事を言えるものだ!
福島の原発事故は「民主党による人災」だと思う!
津波による電源喪失を予測できなかったのが一番の原因。
その責任は、どこにあるのだろうか?本当はわかっていると思いま
亡くなった方々を思うとやりきれません。
いつどこで起こってもおかしくありません
この人のせいにしても、政治批判しても気持ちは晴れないですし的
自分の身はもちろん、家族やともだち
守れるように考えて想定したい。
今の状況をみると何党が政権にあっても同じだったと思うが、あの
★吉田所長は『最後は決死隊をつくってでもやります』と言ってく
↑
これ美談か?
酷い話だよ、まったく。
命を懸ける作業員に、頑張ってください、だとよ。
左巻きはいつの世もこんなものだよね。
若い頃から学生運動をずっとやってたものは頭を切り替えることが
いつも「俺が俺が」と思い込んでいるんだろう。
まああの時、民主党を選んでしまったんだからしょうがないよね。
もうこりごりだよね。
枝野も現時点では放射能の影響はないと繰り返し言ってたよね。
小沢は一人で逃げちゃってどっかに潜り込んでしまっていたし…。
本当に口先だけのひどい民主党時代だったね。
それが明らかになっただけでもよかったと慰め考えるべきでしょう
ご本人は活躍したつもりでも数々の失敗をした。
決定する過程を後から検証できる議事録を残さなかったこと。超法
専門家よりも東工大OBの意見を聞こうとしたことなどなど。
当時の福島原発に押しかけて、
来て、座って、怒鳴って帰った、迷惑だったって言われたやつね
お相手するどころじゃないのにね
『菅氏はこの際、現場作業者の激励には赴いていないという。
訪問の様子を「来て、座って帰られました」としか吉田氏が表現し
菅氏に対して好印象だったとはとても言いがたい。
吉田氏の聴取後となる2012年2月に刊行された、福島原発事故
菅氏の現場訪問時の様子が書かれていた。
池田元久経産副大臣(当時)の手記の中で、
「怒鳴り声ばかり聞こえ、話の内容はそばにいてもよく分からなか
身内でさえコレ。
たまたま自分の番の時に起こったんだから同情はするけどね。
いくら役立たずになっても国会議員という巨額の報酬もらえる仕事
こういう方は野党にも与党にも大勢います。
いわき市あたりでは避難民が手厚い補償で家を建てて高級車を乗り
確かに当時は大変な思いをしたと思いますが、元からの市民はこの
決して報道はされないけど本当の話です。
事実です
私の双葉町の親戚は、いわき市に一戸建て2軒建てました。その理
また、私の母の叔母ですが、私の母に「1億貰うまでは死ねない」
家を2軒たて続けに建てられる80代の財力は凄いです。
双葉町、大熊町、富岡町、浪江町、飯舘村の避難者は賠償漬けにな
いわき市民からは同様の話たくさん聞く。
だいたい、家、クルマ、パチンコ漬けといったところ。
真偽の程は知らないが、本当によく聞く。
地震、津波は天災です。
しかし、原発の水素爆発は人災です。
その人災を防げないのは菅元首相の責任ではないと思います。
しかし、「俺は原発に詳しいんだ!」と言って緊迫する現場に素人
当時の民主党政権では事業仕分けというパフォーマンスでスーパー
そのパフォーマンスに対してはどう考えているのですか?
民主党のだらしなさが緊張感のない自民党政権の安泰を招いた事に
現場に駆けつけるだのパフォーマンスで足引っ張らなければ。。。
アメリカの支援を最初の方で断らなければ。。。
と考えていたが、全ては結果論。
コロナ対応の様子を見ていると、自民政権だったとしても似た事態
年に1度。故吉田所長、現場作業員の方々の命懸けの対応があって
あれから、10年か。決して忘れていないが、思い出すのも、恐ろ
水素爆発を起こした原発に空から、自衛隊が、ヘリを使って、水を
大丈夫か、テレビを見ていて、びくびくしていた。管総理も、身近
信用できず、出身校の東京工大の友人を頼りにしていた。現地の原
彼の奮闘ぶりを後世に伝えるために、もう少したって、落ち着いて
事故直後フジTVのニュースジャパンに連日出ていた京大教授の不
どのマスコミも菅直人の言い訳ばかり流している。それはこの10
同時に東京電力も、福島第一原発に致命的な問題が有る事を知りな
役人も東京電力に丸め込まれて来たのだから、あの事故は政府・官
まず菅直人さんは過去の失策を素直に謝罪するべきだと思います。
一番のポイントはインタビューにも出てく来るように「5000万
私の記憶では水素爆発が起きているとき、アナウンサーが「この爆
炉心熔解だから十分その可能性はあった。
では何故水蒸気爆発は起きなかったのか、原因は謎である、運が良
そもそも何故炉内の圧力が全く下がらず吉田所長もお手上げだった
これも運としか言いようがない。
なのに現在原発は安全である、安い電力供給のため原発は不可欠、
この人も期待した能力はなかったかもしれないが、
今の自民党政府だって酷いもんだろう。
期待するほど能力がある人間が政治家になっているわけじゃない。
ただ、立候補して当選した人間が議員やってるだけ。
能力ある無し関係無く。
そもそも地震大国の日本に、原発多過ぎでしょ。
しかも、津波が来たら一発でアウトになりかねない場所に設置して
原発を増やしたのは自民党。もしあの時自民政権だったら、立派な
自民党にだって原発を増やした責任はあるんだから、今後来るであ
菅直人元首相が良かったとは思わないけど、あの時どの党の誰が首
ところで、事故当時の東電勝俣会長や清水社長、武藤フェローは何もインタビューなど答えないのでしょうか?あれだけの事故を起こしておきながらお咎めなしで「逃げ切り」ですか?
斑目委員長も、原発メーカーも、経産省も、誰も責任を取ろうとしない事に怒りを覚えます。こんな事でははまた事故を繰り返すのでは。
今回の新型コロナの問題も「未曾有の危機」という点で原発事故と共通しているが、両者で大きく異なっているのは、対応を検討するのに必要な時間の長さだ。新型コロナの場合、数ヶ月くらいじっくり検討することが可能だが、原発事故はそんな悠長に検討している暇はなかった。
というよりも、原発事故の深刻さをすぐに理解し、速やかに行動に移せる人が他にどれだけいたのか、甚だ疑問を感じる。過去の経緯を考えても、東京電力が不都合な事実を隠蔽し、最悪の結果を招くおそれは十分に考えられた。そのような最悪の事態を想定して行動するのが、危機管理の鉄則だろう。
菅元総理の当時の苦悩が想像される。
確かにこの人の対応が正解だったとは言えないが、未曾有の事態に対して、何が正解だったとか不正解だったとか批評すること事態がそもそも間違いだと思う。今回の対応を未来への教訓にすることが、今後の私達に課せられた義務であり、民主党が〜菅元総理が〜などと言っているうちは、もし次同じ事が起きたとしても、同じ過ちを繰り返してしまうだろうと思う。
もし、東京での東電本社の対応を知れば吉田氏も「確かにそれなら俺でもヘリコプターで福島に飛びたくなる気持ちは分かる」と思ったことでしょう。
それと、吉田所長ら福島の現場は退避するなどと毛頭考えたことは無かったでしょうが、東電本社の人間は従業員の被災責任が自分達に及ぶことを恐れて全員撤退を官邸に懇願しに行ったのです。
「一部の人員は現場残すつもりだった」などというのは後から繕った言い訳でしょう。
菅元総理が理系の出身であったにしても、東電側からの正確な情報が早くこなければ、判断などできるはずがない。
むしろ、昨今の保身の議員、忖度の官僚でははるかに酷いことになっていたのではないでしょうか。
またかさ上げされた土地や防潮堤を見ましたが、大変な税金を投入して行われたことでしょう。
もし自民党政権であれば、更に巨額な利権となっていたのではないかと思います。
東電においては先日、柏崎刈羽原発でIDカードの不正使用が発覚するなど、数々の不祥事を出しています。結局、東電あるいは他の電力会社の内部体制は全くできていないことが明るみになっています。
監査体制も身内が身内を監査するような状態です。
これでは不足の事態が再び起きるのではないかと危惧しております。
気持ち悪いな。
自分の会社の保守管理が足りなくて
みんなに迷惑かけたんだし、普通じゃ
ない?
海の側の施設に津波対策なんですし
ててよって思うけど。
給料だって高いし、それなりの利用
料を払ってますよ。東電擁護は違う
と思うけど。
地震や津波の最大値に沿った計画、電源喪失にならない何通りもの電源確保、または冷却方法等々。
結局、津波で破壊され、電源喪失で冷却出来ずに水素爆発と言う最悪なルートを辿る事になった。
あらゆる角度から有り得る危険を想定して来なかったツケが出たと言える事故だった。
民主党が政権をとるずっと前から「原発は何重にも安全対策が施されているから安全だ」結局それはまやかしだったと明らかになるのだけれどそんな神話を盾にリスクヘッジを怠ってきた。過去の津波から危険を訴えても経営陣は”自分たちが原発にかかわってる間はそんなこと起こらない”と高をくくったのでは?でも震災で原発事故は起き、不都合が明らかになるのを恐れた東電と行政は情報をコントロールしたがった。その結果事態の掌握は遅れSPEEDIの警報も黙殺された。東海地震の誘発を恐れた首相は原発の停止を決めたけれどこれに危機感を覚えた電力会社、電力会社と関係の深い党内議員、自民党…積極的にではなかったけれどテレビ、新聞などマスメディアは総理の退陣を要求した。菅直人首相には過去、原発に関して隠蔽しなきゃならない落ち度なんかなかったと思うし情報の把握に努めていたと思う。一方で首相を降ろしたがったものたちは被災者を後回し…。
確かに菅さんもパニック状態だったから、今にして思えばミスだらけだったと思うけど、もし安倍が総理だったらかなりの部分を隠ぺいしただろうし、今のじいさんだったら右往左往するだけで被害は更に大きくなったと思う。
元は東電のトップが原発をスクラップにするではなく、守ろうとし、判断を棚卸しし、現場の判断を止めたこと。
震災、災害、イヤ東京オリンピックだ名目は福島復興だ。それで、建築資材、人、物が東京に流れ、復興に更なる遅れが発生した。
一番悪い奴は東電のトップだと個人的には思う
「社会ニュース」カテゴリーの関連記事