清原果耶『おかえりモネ』の百音も陰キャ?
『おかえりモネ』の百音も…今期のドラマで「社交的な陰キャ」が描かれる“2つの理由”
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『おかえりモネ』で主演を務める清原果耶 ©AFLO
最近のドラマで注目したいのは陰キャの主人公である。彼らは行き先にモヤがかかったように途方に暮れた顔をしている。まず、朝ドラこと連続テレビ小説『おかえりモネ』(NHK総合 月曜~金曜 あさ8時~)。高校を出て働き始めた10代の主人公・百音(清原果耶)がいつも哀しい眼をしている。
次に『コントが始まる』(日本テレビ系 土曜よる10時~)。お笑い芸人をやっている主人公・春斗(菅田将暉)とそのファン・中浜里穂子(有村架純)は30歳を目前にして人生詰んだような虚ろな瞳をしている。
もう一作は、『大豆田とわ子と三人の元夫』(フジテレビ系 火曜よる9時~)。何不自由ない会社社長の40代を主人公にした洒脱な大人の喜劇のような雰囲気ながら、主人公・大豆田とわ子(松たか子)はブラックホールのように光を吸収してしまいそうな真っ黒な瞳をしている。
これらの10代から20代、働き盛りの40代とまんべんなく揃った陰キャ。いずれも今の話で現代的な問題を描いている(『おかえりモネ』だけ2014年からはじまって、2019年までを描く予定)。コロナ禍もあってしんどい話は見たくない視聴者が多い今、なぜ、陰キャによる先の見えない物語が作られているのだろうか。
“哀しみ”を引きずる主人公たち
もう少し各作品を細かく見てみよう。主人公が気象予報士を目指す『おかえりモネ』のモネこと百音は東日本大震災の時、地元・亀島にいなかったことに罪悪感を覚え、好きだった音楽も「なんの役にも立たない」と考えて手放した。そして高校を卒業すると、人の役に立てることをしたいと思い、島を出て自分のやれることを探している。 お盆で実家に戻った時、家族喧嘩が起こり、それを止めた百音はその晩、自室でひとり涙する。だが、彼女がなぜ泣いているのかわからないとSNSで疑問を呈する声もあった。 令和の今を舞台にした若者の青春群像劇『コントが始まる』の主人公・春斗は、コントグループ・マクベスのメンバー。10年やって芽が出ないため解散を目前にしている。ほかのメンバーは家業を継いだり、バイト先で社員になる可能性があったりと選択肢を持っているが、春斗だけ他の選択肢を見つけることができず、覇気のない態度をとっている。 マクベスの熱心なファン・中浜はマクベスに出会う前、仕事も恋愛もうまくいかず1年間、廃人のように引きこもっていた。ようやくファミレスで働き始めるが、たまにお酒を飲みすぎて、外で別人のようになって激しくクダをまいたりする。
映画『花束みたいな恋をした』が大ヒットした坂元裕二脚本で話題の『大豆田とわ子と三人の元夫』の主人公・とわ子は経済的にも自立している。 会社の社長で、広いアイランドキッチンのあるおしゃれなマンションに住み、ウォークインクローゼットの中で素敵な服をとっかえひっかえして、しょっちゅう知人と飲み食いしているので陰キャには見えないが、亡くなった母親の納骨がなかなかできなったり、親友・かごめ(市川実日子)がふいに亡くなると1年間、立ち直れずにいた。
『ドラゴン桜』『イチケイ~』との違い
これらの主人公の共通点は瞳に覇気がないことである。たいていドラマの主人公は瞳が明るく輝き、前を向いている。リモートワークで一般人も使うようになった明るいライト(のもっと高性能なもの)を顔に受け、瞳の中に星があるように見えるものなのである。 例えば、日曜劇場『ドラゴン桜』(TBS系 日曜9時~)や月9『イチケイのカラス』(フジテレビ系 月曜よる9時~)、大河ドラマ『青天を衝け』(NHK総合 日曜よる8時~)では、主人公の瞳が自信や希望、真実の探究心に満ちて強く輝いている。これが一般的なエンタメの主人公である。 主人公ではないが主要人物である『青天』の慶喜(草彅剛)は「私は輝きが過ぎるのだ」と悩んでいるくらいで、悩んでいるけれど照明は当たりまくり、瞳はここぞという時、キランと輝いている。
瞳が輝くと視聴率は上がる?
ところが、『モネ』、『コント』、『とわ子』では瞳をあえて煌めかせ過ぎないようにしているのではないかと思えるほど、主人公たちは伏し目がちに見える。その証拠に『コント』の中浜はようやく再就職をする決意をして、美容院に行ったり面接用のスーツを買ったりしたとき、瞳に光が入って輝きはじめる。 瞳に光が入るのと入ってないのでは、印象がまるで違うことをリモートワークで実感した人も多いのではないだろうか。ドラマでも瞳の明かりの影響力は絶大で、観る者にもそのキラキラが力を与えて来た。世帯視聴率がそれなりに高いドラマは主人公がまっすぐ明るい瞳をしている。 『コント』も中浜の目に光が入った回の翌週は視聴率が上がった(第8回)。人は主人公の明るく強い視線に惹かれやすい。にもかかわらず、なぜ、陰キャが主人公で、簡単にすっきりと答えの出ないドラマが増えたのであろうか。
“陰キャドラマ”が増えた2つの理由
ひとつはミステリー仕立てにできること。『モネ』の百音、『コント』の春斗と中浜、『とわ子』のとわ子……皆、一様に多くを語らない。だが、もともと暗かったわけではなく、学生時代は部活の中心になって張り切っていたりしたことが後になってわかる。彼らは皆、何かをきっかけにふさぎ込むようになったのである。 その何かがドラマのフックになり、「いったい主人公たちに何があったのか?」「彼らは傷を癒やすことができるのか?」というように、手が届きそうで届かない謎が視聴者は気にかかり、それがドラマの牽引力になっている。大きな事件は起こらないけれど、主人公の心もようを解き明かすミステリー仕立てである。 もうひとつは、リアリティー。あえて「かなしさ」を描く気概。長引く不況、ハラスメントが横行する社会、劣悪な労働環境……などによっておつかれ気味な現代人は、ドラマでは気楽でいたい。そのためリアルな描写を避ける傾向にある。家族や就職先でのパワハラなどを描いたドラマを見たくないという声は、SNSの発展によって可視化され増幅もする。 そのため、一話完結で、犯罪者が捕まるミステリーや患者が必ず救われる医療ものが増えて、恋愛ものの場合は、キュンとなるシチュエーションものが人気。とにかく主要な登場人物が報われるものが好まれる、はずなのだが……。
「生きるかなしさ」に挑む作り手たち
視聴者はしんどいものを見たくないけれど、作り手はそういうものを好んで書こうとする。かつて、脚本家・山田太一は1991年にアンソロジー『生きるかなしみ』を編み、そのまえがき「断念するということ」でこう書いた。 〈 そして私は、いま多くの日本人が何より目を向けるべきは人間の「生きるかなしさ」であると思っている。人間のはかなさ、無力を知ることだという気がしている。〉 山田太一はドラマ界の神のような存在だから、彼の言う「生きるかなしさ」から目を逸らすべきではないと今なお、作り手は果敢に山田が書いてきたようなものに挑みたくなる気持ちもあるだろう。 『モネ』の場合、東日本大震災で被害を受けた気仙沼が舞台で、百音の悩みはそこに起因している。『コント』は中浜の妹も高校時代に野球部のマネージャー活動で燃え尽きてしまっているし、春斗の兄は引きこもりだった。『とわ子』では、恋をしないアセクシュアルな人物やヤングケアラーが登場した。どのドラマにも現代社会の問題が盛り込まれている。 だが前述したように、書き手がどんなに望んでも、受け手が好まなければ成立し辛い。そこで、作り手は哀しみの活き造りは控えはじめた。かなしい主人公を描きながらも、前述したミステリー仕立てでエンタメ化してみたり、もしくは、かなしい人たちをどうやわらかに包み込むかに腐心しはじめているのである。
互いに踏み込まず、察し合う仲間たち
『コント』も『モネ』も『とわ子』も直接的なしんどい描写は少ない。主人公たちがふわっと詩のように虚ろな瞳をして、その瞳の奥や、表情から、視聴者が読み取りたい感情を勝手に読み取るような余白になっている。さらに、しんどい経験を癒やしてくれるような、仲間や知人や家族の空気を含んで柔らかいタオルのように肌にやさしい関係性が描かれる。 『モネ』や『コント』や『とわ子』では登場人物たちが終始一貫して塞いでいるわけではないし、他者との関わりを閉ざしているわけでもなく、感じよく振る舞い、時には笑顔になるが、ふとした時、瞳が虚ろになる。「社交的な陰キャ」という感じである。 皆、互いに踏み込まないように気遣い、相手が何を求めているのか察しようとアンテナを張る。そんなふうに懸命に気遣っている空気を読まず、自分本位の意見を乱暴に押し付けてくる者はあっという間にいなくなる。もしくは味方になってしまう。みんなやさしいけれど、主人公たちはかなしい瞳をしている。
かなしさのやり過ごし方を描くドラマ
他者を傷つけない人たちだけの繭のような共同体で生きている人たち。これは前クールの『にじいろカルテ』(テレビ朝日系 木曜よる9時~)もそうであった。岡田惠和はこの手の作風の先駆者で、『姉ちゃんの恋人』(フジテレビ系)も朝ドラ『ひよっこ』(2017年度前期)もみんなが厳しく怖い世間の荒波から隠れるように肩寄せ合って生きていた。「生きるかなしさ」を見つめた末に発見した、かなしさのやり過ごし方を描く。それが、今の陰キャのドラマである。 春斗や中浜や百音のどこまでも透明過ぎる瞳。とわ子の黒々とした光を吸収するような瞳……。スター的な人物にあえて虚無的な瞳をさせることで、奥に潜む何かを湖を覗き込むように見つめているような神秘性がエンタメになる。時には、彼らの目に中浜のように光が当たる瞬間が喜びになる。 社会派とはちょっと違う角度のリアリティーとミステリー、それが今のドラマの主人公の瞳に現れている。いずれにしても、瞳のニュアンスで演じることのできる名優たちの演技力があるからこそできるトライである。松のようなベテランのみならず、若手俳優のスキルも上がっているからこそ、人間の深い陰影を表現できる陰キャドラマも作ることができるのである。
木俣 冬
【文春オンライン記事】
参照元/続きはこちら→ヤフーニュース
URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/bf025b54a6c1e07c5ffb188bab3b38f78dff412f
会社で元気に振る舞うが、家では本当の自分は別にいると密かに悩んだりするような
ドラマの中にしかいない常に前向きな頑張るタイプばかりより等身大に近づいたのか
乗ったバス中で偶然、職場の青年医師と鉢合わせするシーンは、
これからの彼女の生き方と未来を暗示させるようで良かったなあ。
今季の朝ドラは押し付けがましい明るさが無くて、静かで好き。
バス停で髪を風になびかせおでこ全開の清原果耶は爽やかな表情が明るく
輝いていたし、バスの中での会話や出来事も面白かった
極めつけは「いいですよ~先生のほうがひ弱そうだし」
このセリフを何の嫌味も他意も感じさせず発する清原果耶はキュート
陽キャと陰キャ。昔はネアカとネクラって言ったっけな。社会人になっても人間をそんな評価軸でしか見られない人がいるのかと思うと、悲しいな。
この3つのドラマすべて、それこそそれぞれの余白を味わい楽しむ作品なんだから、括った瞬間に陳腐で退屈なものになる。
括らないで広がりのある方向で批評お願いします。
返信2
「おかえりモネ」の清原果耶は主演だが、あとの二人は助演だから極端な話、いてもいなくてもキャラが違っても良い存在。
たまたま、今期話題のドラマ3作品に「陰キャラ」が出ているからと、新型コロナまで持ち出して偉そうに、時代が陰キャラを求めているとか良く、いい加減な結論書けるものだ。
「おかえりモネ」の清原果耶は、「陰キャラ」とかで、現されるほど単純なキャラクターでは無い。
誰でも多かれ少なかれあるトラウマを抱えながらも前向きに生きている素敵な女性だ。
そんな魅力的な演技をしている清原果耶に「陰キャラ」なんて安っぽい言い方をして欲しくない。
だから、こんなクダラナイ文章書く暇あるなら、もっと「おかえりモネ」を、ちゃんと見て欲しいな。
考察が浅い。とわ子までひっくるめるのは浅すぎる。
モネは友達と家族に恵まれ震災でも家も家族も友人もなくしていない。
千代は幼い時に母を亡くし親に売られ夫に裏切られた。
でもモネはなぜかいつも憂いを含んだ悲しげな瞳をしてるし千代は不幸のどん底でも目は強い光を放っていた。
「陰キャ」って差別用語や悪口だし大々的に使っていい言葉じゃないよ。
読んでいて不愉快。
別に物静かな人が悪いわけではないし内向的な人にも良い所はあるのに。
陰キャとは違うやろ
壮絶な人生を送った人物を主人公にしたら大体はそういったキャラクターに
なるのではないのかな?
底抜けに明るいキャラクターが主人公ならば良いのか?
そんな人物ばかりの物語に感情移入すると思うのか?
喜怒哀楽のバランスのとれたドラマにするのは脇役にかかっているし、
意表をついた奇天烈なストーリーも求めてはいない。
売れっ子作家ほど「死」を簡単に扱う気がします。
いやそういうもんだからいいけど
娘に彼氏ができない、だかのドラマもでかい眼鏡かけさせれば陰キャに見える、みたいな適当さがだめだ
ガチの社交的な陰キャは二度目の人見知り
初見や一度きりなら明るくこなせるが会う回数が多くなるほど付き合いが下手になる
まぁこんなキャラじゃ話にならんけどな
ただ、1クールで完結させる多くの民放ドラマだと、この記事にあるような内面を描くには短いかもしれません。1クールで伏線も回収するなら、やはりわかりやすく簡潔な流れにするか、1話完結にするかが現実的かもしれません。
「陰キャ」としょっちゅういうけど、私から見ればどこが陰キャなんだろうと思います。
ドラマに出てくる人たちも大して陰キャに思えません、むしろ明るいキャラに見えます。
現実の本物の陰キャは在宅で仕事して私のようにしょっちゅうヤフコメに書き込んで友達も彼氏もいない40代の独身だったり 外で仕事してても本音を話せる友達がいなくネットで誰かの悪口書いてストレス発散してたりそういうのが本物の陰キャのイメージなので
ドラマとかに出てる人程度で 陰キャ推しされても どこが?と思います
私から見たら十分陽キャラです。
本来は相当陰気でボソボソ話すみたいな人だと思うので社交的な陰キャと言うのは矛盾してる
ちょっと影が多めなだけでは。
それはそれとしてモネは結構良い感じに思います
モネの場合これまでの朝ドラの主人公の中ではちょっと異質だけど現代劇だからかすんなりキャラクターが入ってくる。
ドラマは見ていないですが、「社交的な陰気」というのはまるきり陰気ではないので、単におしとやかな人か控えめな人のように思います。自分自身も子供の頃は本ばっかり読んで過ごしていたので陰気だと言われていましたが、実際には外に出て遊ぶこともありますし、声も甲高くうるさいです。
ただ、日本という国は内向的な人に寛容で、その力を活用して発展してきた面もある。内向的なのは仕事熱心、真面目と必ずしも悪い評価ばかりではなかったし、そいういった人に周りの人々がお節介を焼くから結婚も出来たし子供も持てた。
バブル期以後グローバリゼーションの波によって欧米の外向性礼賛文化が日本に染みついてきた。ネクラだの陰キャだの言う言葉もそういった流れ。
「陰キャ」なんて単なる流行言葉で、一定水準以上の一般常識があったって知らないんだから、説明してよ。説明できない気もするけれど。それと、言い換えられるのなら、本来の正しい日本語で書いて。流行言葉は作家や新聞は使わない。だからライターは困る。話はそれからだ
そういう表現や括りをされた時点でモヤモヤしたからかな。
過去に負った傷や不安がある中で、自分で見つけた道に向かって前へ進み、過去から立ち直っていく、とっても単純な話ゆえに俳優さん達の表現力が欠かせないドラマだと思う。毎日面白く見ています。
この記事には出てこないけれど先週スタートのNHK土曜ドラマ「ひきこもり先生」で似たことを思いました。主人公が本物の陰キャ。以前家族に鬱の人間がいましたが同じ、光のない目をしてる。表面的な甘い言葉では癒せない。そんな時絞り出すように「生きよう!生きよう!生きよう!」と言う。すごい脚本だと思いました。
陰キャってひどいなぁ。清原果耶自体が静かでそんなにはっちゃけたキャラではないから、百音は等身大で役になりきっているように見える。表情がすごく自然で演じているように見えない。逆に、彼女はおちょやんの役が上手くできたかは疑問。それぞれ合った人がヒロインに選ばれているのだと思う。おちょやんも好きだったけど、今はおかえりモネを楽しんでいます。
「陰のあるキャラ」と勘違いしてないか?
今期のドラマで陰キャって言葉がぴったりなのは「レンアイ漫画家」の鈴木亮平だと思う。
勧善懲悪!白か黒か!
それって現実ではあんまりないんだよね。グレーのところに落ち着かざるを得ないのがリアル。
なので記事にある昨今のドラマの傾向を嬉しく思います。作品や登場人物に層ができて深みが出るから。時代が反映されるのが芸術作品だと思うので大人が楽しめる行間を読ませるドラマも、大事に作っていってほしいです。色んなドラマ見たいよね。
これからの新しい作品には、現実世界にも繋がるリアリティを求めたくなる。
陽キャばかりに光があたり陰キャを情けない脇役としか描かないドラマは見れば見るほど、理想と現実のギャップに苦しんだり自己肯定感が下がっていったり、長期的に見れば辛くなることもある。
割り切って見れる作品もあって、もちろんそれはそれで楽しく見させてもらってます。
コント~は、マクベスの三人は陰キャではないですね。有村架純の役も高校時代部長で全国3位とか、妹も野球部のマネージャーって、どの辺りが陰キャなんでしょうか…?
社交的な陰キャって、ライターさんは陰キャ知らないんだろうなと思います。
親御さんが早期に買い与えて、直接の会話時間がどんどん減っている。
‘陽キャ’という言葉もあるが、’陰キャ’というやや自虐から話し始めるスタイルは今の若者らしい。
今後会話時間を増やしてコミュニケーション力をつけていくのかどうか、文科省や子ども庁の動きをみたい。
もう一般的に浸透しすぎてしまってるだろうけど
アニメなんかだとギリギリありだけど、リアリティは低いし。
日本人に社交性の低い人は少なくない。
やっと、そういう人たちにスポットが当たるというのは意義があると思う。
ただネガティブに描かれるのだけは勘弁して欲しい。
社交的で周りの人と深く関わってる時点で陰キャではない。
陰キャラで思い出したけど、山田太一脚本や早坂暁脚本、また彼らのドラマが見たいかな。彼らのドラマには市井の人々の心情が誇張なく等身大のまま描かれていて、見ていてとても胸打たれたから。
…という実際見たことない人よりも、ちょっとしんどいことや哀しみを抱えながらも外では懸命に振る舞ってる主人公に、より親しみが湧くかなーとは思う。
とわ子の、描かれない空白が好き。
夫たちとの離婚の経緯、かごめの死、小鳥遊との別れ…説明しすぎないところが、いい。
ドラマオタクが、なんだかんだ言っても、バブルが弾けた頃から個が どんどん強くなり、趣味も多様化して 流行りのドラマに まあ楽しかったと思っても 大きな影響を受けるとまでは思えない。マイブームは、1人1人にあり、家庭環境も若い人の境遇も得意分野も多様化しているのに、ドラマされどドラマ 自分の人生のドラマに勝るものはない。
人見知りもせず誰とでも話せ、皆に好かれ、前に出て大勢に語ることができ、バスで初めて見知ったおばさんとあそこまで上手くしゃべることができる。
その他にもいっぱいあります。
友達の中心だし。
私はいつも見ていて、こんなしっかり人と付き合える十代だと私の人生も変わっただろうな、って思います。
陰って言うのかなあ?
もちろん、誰でも東大に行けるわけではないし、好き放題に職権発動されては困るし、光源氏など想像上の人物である。
しかし、そういうメルヘンチックな主人公は、閉塞感漂うコロナ社会では一服の清涼剤になる。
一方で、この記事に挙げられた3つのドラマはリアリティを追求したことで暗いテーマになり、その上、主人公たちは何に苦しんでいるのかわかりにくいので共感を生みにくい。しかし、それこそが現代社会の病巣そのものなのだ。
東大に合格して、そのあとは?正しい裁判をしてそれで満足?戸籍もない光源氏と結婚?
そんのことは、どうでもいいのである。
ドラマ製作者も、ターゲットをどこに置けば視聴率が稼げるのか?せめて、視聴者の共感を得て次に繋げられるのか?悩ましいところだと思う。
陰キャという枠に嵌めないと物事が考えられない人は、ある意味、軽薄な人だ。
生きてることは哀しいけれど、自分自身で命を手放してしまうほど哀しいことはない。それだけは選ばないようにして生きていくしかないのではないだろうか?
ところで、「春の呪い」は、陰キャだよね?
返信0
悩まない(考えない、能天気)
前向き(策はない、いきあたりばったり)
明るい(自分さえ良ければいい、空気読めない)
対人関係が気にならない(無関心)
もちろん!
考えすぎとか悩みすぎとか、限度はありますがね。陽キャは見てて異様だし、不快で一緒に何かやるのが大変。
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