日航ジャンボ機が尻もち事故修理不備が原因で墜落して35年 坂本九さん妻の思い
日航機墜落35年 坂本九さん妻「伝えていく」
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520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故から12日で35年です。事故で亡くなった歌手・坂本九さんの妻で、女優の柏木由紀子さんは「忘れてはいけない日を多くの人に伝えたい」と語りました。
1985年8月12日、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に日本航空のジャンボ機が墜落しました。乗客乗員520人が犠牲となり、そのなかには歌手の坂本九さんもいました。
坂本九さんの妻・柏木由紀子さん:「家庭で子どもたちとわいわいとべたべたやっていたのが皆、幸せだったというか。忘れてはいけない日ということを多くの人に伝えていかないと」 35年が経った12日も慰霊登山が行われます。今年は新型コロナウイルスへの対策で参加者が集中しないように登山の日程が5日間に分散されました。恒例の灯籠(とうろう)流しは中止となり、追悼慰霊式は規模を縮小して行われます。
【テレビ朝日記事】
参照元/続きはこちら→:ヤフーニュース
URL:https://news.yahoo.co.jp/p
幼い子供を遺し、無念だろう九さん。
また、幼い子供を抱え、一人で育てる事となった奥様。
子供たちも突然お父さんを失う悲しみ。
被害者の中には奥様が妊娠中で、事故後、出産された方もいるとか。
多くの人生に影響を与えた事故でした。
同じ過ちを繰り返さない為に、ずっとこの教訓は伝えていくべきだ。
生存者の1人だった川上慶子さんが後に医療の道に進んだ事を考えると、人生を変えてしまう程の大事故だったと痛感する
近年、様々な陰謀説がネットや出版業界を賑わせていたが、確かに不可解な部分が多いだけに、真相を知りたいのも正直なところである
御巣鷹山がある上野村はすぐ近くにあり、大人達が上を見上げて話していたり、ざわさわとした雰囲気だったことを。
当時は、上信越自動車道も開通しておらず、上野村へはなかなか不便だったと思います。
これを教訓に二度とこのような事故が起きませんよう。祈ります。
衝撃でした
でもそれが事実でもありました
その後も123便の記事や本をたくさん読みました。
この事故のことは忘れてはいけないと思います。
公的には、“圧力隔壁の事故”と言うことになっているが、本当に事実か?はいまだに怪しい。色々な検証レポートを読んだが、政府が事故の真の原因を隠蔽しているとしか思えない事実がいくつかあるようで、これが事実であればとんでもない大事件です。35年も経ったのだからそろそろ真実を世の中に示しても良いのでは?
当時、心斎橋で修行中で、この便の折り返しで東京に戻る予定だった。
伊丹に着いても折り返し便(123便)が到着しておらず、今のように携帯電話もなく情報も錯綜していた。
数時間待って結局、職場の寮に戻って翌日の新幹線で帰京した。
圧力隔壁の破壊がもう少し遅れていたら、この世にはいなかっただろう。
明石家さんまも搭乗予定だったこともお忘れなく。この事故以降明石家さんまは新幹線移動に切り替えたんですよ。
もう35年なのか、まだ35年なのか。
過ごし方において時間の感覚は人それぞれですよね。
私には、「まだ」…と、感じます。
この凄惨な事故はつい最近おきたんだと。
急速な科学やIT進歩の中で、「命の重み」も常に忘れてはいけないと、心に感じながら、追悼したく思います。
後にビルゲイツ自身が、Windowsよりも優れていたと認めていたものだ。
この事故でトロンプロジェクトも中止になってしまった。
大切な人達、大切な技術が奪われた、大変痛ましい事故でした。
ほとんどの人が一報を見た時にどこで
何をしてたか鮮明に覚えているのでは?
それくらい、この墜落事故も衝撃的で
翌朝女の子がヘリで収容される映像は
今でも目に焼き付いている。
奇跡的に助かった4人は、助かって良かった
なんて感情はなく、亡くなった500名以上の
魂に思いを馳せて、手を合わせながら生きて
おられるんだと思う。
事故直後は、まだ生きている人もいて
うめき声もあちこちで聞こえていたらしい
から、未だに耳に残っているかも?
助かってなお、苦しい日々なのでは?
自分自身が、翌日8/13に羽田から飛行機に乗ることになっていて、
とてつもない恐怖を感じたことを覚えています。
搭乗中は緊張と恐怖で1時間のフライトがその何倍にも感じられました。
風化させてはいけない、記憶にとどめておかなくてはならない
いつまでも鎮魂の祈りをささげたいと思います。
私は16歳、高1の夏休み中で、友達の家で甲子園のテレビ見てる時にニュース速報で日航機が行方不明的なテロップが流れたのを見た思いがあります!(記憶違いかもしれませんが)その後大事故&大惨事になって行きました、、、
月日が過ぎて事故が風化して来てますが、各航空会社はこの事故の教訓を基にして安全運航をして貰いたいですね!
合掌
母親がこの便に乗る予定だったが、用事が入って直前にキャンセルしたそう。事故以来、飛行機に乗るのが怖いと言っていた。自分が生まれてから20年ぐらい経つけど、確かに母が飛行機に乗る姿を見たことがない。母が35年前、123便に乗っていたら自分は生まれていなかっただろう。周りの同級生はほとんど墜落事故を知らないし、私自身も母から話を聞いてなければ今も知らなかったかもしれない。この命に感謝して生きていきたい。
たしか昼過ぎの番組で、その時私の大好きな坂本九さんが出演されていました。
番組が終わるとき、「これから大阪に行ってきます!」と元気よく最後を締めておられました。そのあとバイトに行って夕方帰ってきたら、言葉も失う惨劇を知らされることになり、坂本九さんもその便に乗っていたと聞かされました。
大阪に行ってきます、と元気におっしゃっていた人が、数時間後にはこの世にいなくなるなんて…
家族でも知り合いでもない私がこんな衝撃を受けるくらいなので、ご遺族は想像を絶する苦しみと悲しみを背負ってこられたこととお察しします。
時は流れてもご遺族の悲しみは癒えることはないと思いますが、どうか天国から見守って下さっている大切な人たちのために生きて生きて生き抜いてほしいです。
就職した年です。当時の写真雑誌には、無残な事故現場の写真と散らばった遺体の写真も載っていました。夏休みで実家に帰っていて、その時にテレビからものものしく報道されていました。生き残った数名の方も、その後の人生、本当に辛いものだと思います。原因は結局、有耶無耶にされて、特定できずでそのままですよね。もう35年ですか……。
いいお父さんだったんだと思う。それがなんであんなに早く。
某元グラビアアイドルの旦那は奥さんが赤ちゃんに母乳を飲ませると「母親臭を出すな、俺の目の前でそういうことすんな」って言い放ったって話も読んで、同じ男でもこうも違うんだなあと思ったっけ。
様々な事故の真相説や陰謀論が出ているが、ボイスレコーダーのデジタル音声解析や事故調発表の飛行ルートと目撃者の証言との相違をGoogleEarthを使って説明したりとrainbo6003さんのYouTubeは興味深い。いずれにせよ、事故調発表の圧力隔壁の修理ミスによる事故原因は疑わしい。亡くなった方と遺族の方の為、そして空の安全の為にも真相解明を願う。
たまたま7時のNHKニュースを見ていたら、番組の最後に「只今入った情報によりますと、羽田発大阪行きの日航機がレーダーから消息を絶ちました」だけ報道していったんニュースが終わった。
その時はなんとも思わなかったが、その後、番組が途中で切り替わり恐怖の一夜を過ごした
リアルタイムでテレビを観ていましたが、あの緊迫感と絶望感は今も忘れられません。123便と管制塔のやり取り、コックピット内の機長や副操縦士たちがコントロールできない機体との格闘する様は本当に切ないです。
ただただ冥福を祈り、この様な事故が二度と起きないように祈るしかありません。
ジャンボ機が、レーダーから消えた直後だと思いますが、職場に緊急招集の連絡が入りました。
上の機関(都道府県)は、堕ちた場所にこだわっていました。
いち早く、墜落場所を把握したのは、長野県でした。
当時は、他県との連絡・連携がありませんでした。
その直後に、待機が解除されました。
もし、この後に招集出動が有るかもと思い、朝まで詰所にいました。
後の検証で、連携が取れていれば、多くの乗客の救助が出来た反省が有りました。
その後に、都道府県の連絡・連携が出来た事。
あの暑い夏、空を見ながら当時を思いだします。
あの事故を語って欲しいと思うけど、酷ですよね
家族としては、今、思うと良かったのですが、当時搭乗された方の事を思うと胸が痛みます。
18時くらいからラジオでずっと事故の状況が放送されていました。
翌朝に成城学園前駅の売店にあったスポーツ新聞の一面で坂本九さんが搭乗されていた事を知り衝撃を受けたのを今も忘れられません。
仮に生きて入られたらMSになりえていたかも。
ソモソモMSも原理はトロンからの引用だと俺は思う。
この事故は国民の宝を失った日でもあるのです。
あの便に乗っていたらと思うと背筋が寒くなった。
人の運命なんて一寸先は闇だ。その時その時を大事に生きないといけないと改めて思った。
なぜ米軍の援助申し出を断ったのか?
なぜ相模湾に沈む遺留品と機体の一部を引き上げないのか?
この二つだけでも再調査する価値があるし、事故調の発表では不足である。
こうした要求を陰謀論として一括りにする連中はもう少し頭使えよ。
真実が何だったのかをきちんと発表しろという要求は陰謀論ではないぜ。何でもいいから本当のことを言えというだけだ。
その後ずっとテレビに釘付けになったあの日からもう35年ですか…
一晩中JAL123便の行方を探し続け、
朝になり現れた御巣鷹山の墜落現場の映像に愕然となった記憶も鮮明に残っています
ただ深夜1時前後のNHKの映像で、漆黒の闇の中のヘリコプター映像に
墜落したJAL123便と思しき機体が現場で炎上している映像があったと記憶しているのですが…
そこは自分の見間違いだったのか…
もっと早い時間帯で墜落現場が特定されていたような気がして仕方がありません…
後年公開されたJAL123便のボイスレコーダーの音声を聞くと、
操縦室で3人の航空士が墜落の瞬間まで戦い続けていた様子が分かった時
思わず涙がこぼれそうになりました…
決してご遺族の気持ちになれるわけではありませんが
何年経ってもその思いは変わりません
まずは520名のご冥福をお祈り申し上げます。私はこの日のJAL123便を予約していましたが、前日の飛行機に変更して助かりました。この墜落原因は大雪でしりもちによる隔壁の亀裂と言われていますが、真実は違うと聞いて唖然としました。二度と有ってはならないことです。35年が経ちましたが、何時までも忘れずに引き継いで行って頂きたいです。
若い方にも忘れず誇りに思っていただきたいですが、坂本九さんは日本人で唯一の「ビルボード1位」歌手で、しかも日本語のままの歌詞で全米で大ヒットさせたという伝説的な方です。
そのアメリカでもバディホリーとかエディコクランとか、事故で亡くなられた伝説のスターは何人もいます。
日航機の悲しい事故ではありましたが、坂本九さんも同じく伝説の大スターなのです。
坂本九さん、そしてあの事故で犠牲なられた方々を忘れずに、いつまでも「上を向いて歩こう」が歌い継がれていくように願っています。
当時、お盆の帰省で大阪行きJL123便のキャンセル待ちで長蛇の例に並んでいました。あと1ー2人のところで受付が終わるところだったと思います。突如、関係者に連れられた坂本さんが列の先頭に横から入りチェックインして行きました。運命を感じます。
遺族の方は本当にお辛い思いで過ごしてこられたと思います。私達も絶対に忘れないようにしたいです。
不思議を感じざろう得ない。友人はあの便に乗ってたらいまはなかったといってたの思い出す。ご冥福をお祈りいたします。
なんだかヘリコプターがたくさん飛んでいて
ただならぬ雰囲気だったのを今でも鮮明に覚えています。
たまたま便を変更して違う便に乗った人、たまたま空いていたから乗った人 それぞれの人生のドラマがあったと思います。
生存の少女がその後看護師さんになられたり今でもよくテレビで特集があったりしますね。ご冥福をお祈りしています。
もう35年か。当時小学生でも衝撃でした。坂本九さんは当時から知っていましたが、歳を取った今でも個人的に楽しく楽曲を聞きますし、メディアでも流れたり、他のアーティストが歌ったり。本当にイロアセしなく、今もココロの中に生きてる方も多いと思います。尊敬しかないですね。
深夜のTVで搭乗者名簿の読み上げが延々と続いていた。漢字から住まいまでわかる人もいたし、カタカナの人、下の名前がイニシャルだけの人もいた。乗客乗務員524人全員を読み終えるのに何十分かかったろうか。確か新聞に掲載された名簿も1ページだけに収まっていなかった記憶がある。数字だけではない見知らぬ他人ながら一人ひとりの命の重さを物凄く感じた夜だった。
当時私は友達数人と四国、小豆島、岡山、広島
を旅行してました。
広島のお好み村で店主の方がここに九ちゃんが
来てたのに、行方が分からなくなってると
言われてました。乗ってたのかなと思いながら
家に帰り着きました、ところが
玄関口で母が私の帰りを待っていました。
私のいとこが飛行機に乗っていたと言う事を聞きました。小さい時に遊んでもらったりして我が家にもよく来てました。
ほんとに運命はわかりません。
会社の同僚たちと出かけていて、新幹線で帰る予定だったけど、飛行機で帰る予定だった人と変わってやり事故にあったようです。
上着のポケットに他人の名前のがあり
本人確認に時間がかかったと言う事でした。
私の父が確認に行きましたが、ただ眉間に
傷があっただけのように見えたそうです。
私はそれから何年も飛行機に乗らなかったですこの大惨事は絶対に忘れてはいけないですね。
時がたつと徐々に忘れられていってさまわない様に、しっかり毎年語り継いでいかないといけませんよね。正直私もウルフルズや吉本の芸人達のユニットが♪明日があるさ、をカバーした時に、中学時代にあった、この大事故を思い出した感じでしたので。今年はもとは坂本九さんが唄っていた♪涙くんさよなら、のカバーを主題歌に使っていたドラマに主演していた岡江久美子さんがコロナで亡くなりました。今年はさらに命の大切さ、普通の生活の大切さを考えさせられる年です。
あれから35年なんだね。晩御飯を用意しながらだったかな、気づいたらテレビの画面が切り替わっていて、飛行機が墜落したとの一報。多分、そのあとはこのニュースの続報が続き、深夜までさまざまな場所からの中継だったと思います。しだいに搭乗名簿が明らかになり、そのなかに歌手の坂本九さんの名前があり、その安否の確認が伝えられていました。元大関清国の伊勢ヶ浜親方の奥さんとか何人かの有名人もいたと思うけど、やはり坂本九の安否はいちばんのニュースだったね。上を向いて歩こう、とかを聴くと、この日を思い出しますね。
故中曽根前首相が亡くなってしまった後、政府の誰かが改めて告白・言及せねばならない。墜落原因の多くの不可解な謎。
亡くなられた(殺害された)多くの犠牲者の方の為にも、当時の検証を再度見直し、日本政府・自衛隊らがもみ消した本当の原因・理由を今こそ明らかにして欲しい。彼等の言い逃れを断じて許してはならない。
夜中じゅうAMラジオから流れるニュースを聴き眠れなかったのを思い出します。
生存者がいてヘリコプターに吊るされて助けられる姿、飛行機の残骸衝撃的でした。
ブラックボックスという単語もこの事故で初めて聞いたワードだったと思います。
その後、更に衝撃的だったのは、当時事故の調査を行った運輸省が、調査結果の大部分を隠蔽、抹消しようとしていたこと。
あの腹立ちも決して忘れない。
自分は当時まだ幼かったので記憶は定かではないのですが
最近になって聞く機会があったので、当時の様子を聞きました。
当時自分は母の実家に帰省していて父も同じ場所にいたのですが
急遽警視庁から電話が来まして、今から御巣鷹山に行くということで。
当時千葉の鴨川だったのですが、休みを返上してタクシーで警視庁に向かい。
翌日には御巣鷹山に行ったのですが、まさに地獄絵図でした。
遺体がどうだこうだよりも、まず当時は今の様に登山道が整備されてなく。
現場に着くまでに数時間要した、それだけでなく茹だるような暑さ。
機動隊なので服も重装備なので重く、隊員も熱射病状態。
現場はエンジンオイルの焦げた匂いが充満していて腐敗臭も
とにかくキツかったということは話していました。
あれから35年で父は70近いですが、壮絶な体験だと改めて思いました。
凄惨な現場で救助などにあたって下さった警察、自衛隊、地元の方々、その他沢山の方々の思いも忘れてはなりませんね。
マスコミは報道の義務もあるでしょうか、救助の妨げになったのも事実です。
このような事故や災害での報道のあり方も考えさせられます。
事故後20年の時位に慰霊登山もしましたが、その時でさえ、まだ飛行機の部品や布などがいくつも発見されてました。御巣鷹山で眠ってる方々やご遺族にとっては何年たっても時は止まってると思います。
今は厳しい世の中ですが、安全のために必要な経費は落として欲しくない。そして空の安全を守っている方々のことも守って欲しいです。
当時から人出不足のため、搭乗者名簿確認には芸能関係のスタッフが行っており、
そのスタッフが日ごろから坂本九さんとの交流があって名簿に本名(大島久さん)があって気がついた。
他社は報道関係のスタッフが行っており、日ごろのつきあいがないから大島久さん=坂本九さんであることに気がつかなかったらしい。
この事故で、1年生の教え子を失いました。ご両親と2年生のおねえさんも。そして、お母さまのお姉さまご一家も。お葬式では二人の娘さん一家7人をいっぺんに亡くされたおばあちゃまが痛々しく、慰めの言葉がありませんでした。弟の胸のポケットに入っていたという煙草をお兄さまが大切にそっと差し出され、「しばらくは生きていたのだと思います。」と話されてました。夢に見るのは、何故かいつも寂しそうな表情の幼い顔です。クラスメートも、今では43、4歳になりました。いつまでも忘れないでいてあげることが、何よりの供養だと思います。
「なるほど・ザ・ワールド」を見た辺りからですが、アジア人で初めてビルボード1位を取ってたのは当時は知らなかった
自分も彼の年齢を超えてから彼の歌を聞くと「上を向いて歩こう」の他にもいい曲があり、何度も聞いてしまうようになった
今日はYoutubeで彼の曲を聞いて過ごそうと思う
35年が経過しこの事故を知らない人たちがたくさんいるだろうと思うが、今は嵐が同社のCMで宣伝している今日、日航機墜落という過去があったことも知らない世代に対し、こういうわが国にとって不幸な出来事を伝えていくことが必要だろうと思う。まあどのように思われるのか聞いてみたいものである。
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